希望に向かって -私の人生前進あるのみ-
鈴木佐和子
「鈴木さん、元気じゃったん?」と車椅子の私を戸惑った様子で見ながらそれでも心配そうに声を掛けてきた患者Mさん・・・私は「ありがとう・・・」と言っただけでもう涙が溢れそうになる。そうなんです。今日は私が勤めていた慈圭病院へ絵手紙の指導にやって来たのです。もう二度と来る筈はなかったであろうこの病棟に、今こうしてやって来たのでした。
思えば、私が脳出血で倒れたのが平成9年3月24日昼過ぎの事でした。その頃婦長になるため、数々の業務を覚えるのに精一杯の毎日でした。おまけに病棟を変わって日も浅く、患者さんの名前を覚えるのも容易ではありません。そのような中、お昼過ぎのミーティング中に倒れたのです。52才の時でした。
もぎ取られるようにして辞めた病院、精神科看護の道、准看護師だった私は47才で看護師の資格もとりこれからという時だったのです。それがたったの5年足らずでアッという間にすべての夢も希望も破れ去ったのです。
しかし人間とは、本当に強いものですネ。少なくとも私は、いつもどこかで“希望”をもっていました「必ず元気になって見せる」と。この強い希望を持ち続けたからこそ、頑張れたし今の私があるのです。
倒れて一年後の平成10年4月から車を運転(もちろん右半身麻痺のため左で運転)し、ふれあいセンターで習字、絵画、唱歌、絵手紙と毎日のように通い続けました。一回一回の講座を真剣に大切に受けて来ました。そんな折友人の森岡看護師長より、社会復帰訓練を主体とする患者さんへの絵手紙の指導を依頼されたのです。指導などということは出来ないかも知れないけれど、絵手紙の“心”は伝えることが出来るかも知れないと思い引き受ける事にしました。
5年半振りの懐かしい患者さんとの出会いはやっぱり涙が出て仕方ありませんでした。今では民間ディサービスや知人のお宅等へ、絵手紙の“心”を伝えに行っています。
さて岡山市では「岡山市高齢者福祉計画」に基づき色々な計画を進めています。その中のひとつ「元気の出る会」は当事者、介護者、ボランティアが集まって交流をはかりあたたかい共生の街づくりを目指す、というものです。その代表者にとの話があった時、自分のことが自分で出来るようになりたいと必死の思いで頑張っていた私は、車に乗りふれあいセンターや姉達の家、夫との旅行も楽しめるようになっていたのです。しかしフッと「このままでいいのだろうか」と疑問が湧いたのです。「いやこのままではいけない障害があっても何か出来る事はあるはず」と思ったのです。その結果が「元気の出る会」の代表(現会長)を引き受ける事だったのです。
私が倒れて早や7年半が過ぎました。そんな中でも忘れられない出来事がありました。それは一年7ヶ月たった平成10年10月、脳卒中友の会「あゆみの会」のメンバー80名余り(当事者、介護者、ボランティア)と秋の旅行に出掛けた時の事です。和気あいあいと喋ったり唄ったり食事をしたりと楽しい雰囲気でした。その頃の私はまだ心の底から楽しめる事が出来ず何かつっかえているようなすっきりとしない暗い気分がどうしてもとれませんでした。
そんな時私は何かひとりひとりの“心”でも一生懸命みる・・・といった感じでゆっくり、ゆっくり見たのです。「誰が障害者じゃてーそんな事をいちいち気にして生きとるもんかー」とでも言いたそうな、何とも言えず楽しくって、嬉しくってあったかな・・・その時です!「そうだ!自分だけじゃないんだ!自分だけだと思うから辛いんだ!!」と。本当に目の前がパーと明るくなり、いっぺんに心が軽くなった瞬間だったのです。
右半身麻痺となった私は「自分だけがどうしてこんな悲しい目に遭わなければならないんだろう」と、まるで自分だけが不幸を背負ったように思ったものです。しかし考えようによっては「半身麻痺になったからこそ皆んなの仲間に入れて貰えたのだ」と言えるのではないでしょうか。それぞれに辛く苦しい体験をした人達ばかりのはずなのにこの明るさ、何故なんだろう「こんな人達と仲間になり障害を乗り越えたら素晴らしい人生が開けるんじゃあないだろうか」と思うようになったのです。
さて最近の私はと言いますと相変わらず元気で、夫の弁当作りに始まり車での送迎、掃除、炊事、孫の宿題点検、ふれあいセンター、絵手紙の心を伝えに行くことetc.・・・忙しい毎日です。でも自分のたてたプランなのですから充実し楽しみがあります。
このような体験を話して欲しいと講演依頼があり、少しでもお役に立てるならと思い今も準備に追われています。52才からの人生は障害者としての勇気と誇りをもって、ちょっとだけ人のお役に立ちながら、前へ前へと進んで参りたいと思います。
転載される場合は日本脳卒中協会までご連絡ください