それでも私は
大久保由樹
「そんなこともできないの?」主人の実家で、車椅子がトイレの中まで入らないので、主人に抱えてもらい全介助してもらっている光景を目の当たりにして、四歳になる二女が私に浴びせた言葉だ。私が発病したのは、平成十年十一月九日。長女三歳十一ヶ月、二女二歳半、主人三十五歳、私三十四歳で、二女の七五三のお祝いを三日後に控えた楽しい夜だった。病名は脳幹の出血性梗塞。即入院。それから一ヶ月生死をさまよい、意識は全くなかった。私の名前を呼ぶみんなの声で、どうにか意識は戻った。一命はとりとめたが、意識の戻った私は、首から下は全く動かず、声も失って壊れたロボットになっていた。
長期戦になるだろう、ということで、二人の子供は同年十二月から、主人の実家の佐賀県に預かってもらった。それから二年にわたる入院生活に突入した。子供にとって一番母親に甘えたい時期に、私は遠く長いトンネルの闇の中にいた。子供達とは、お義母さんが二、三ヶ月おきに連れて来て下さる時だけ会えた。長女は覚えているが、二女は私の元気な頃の姿を覚えていない。物心ついた時から母親は車椅子に座っている。この時期一番大好きな何でもやさしく教えてくれる母親が、何もできない、何もしてくれない、座ってばかりいるなんて認めたくないのだろう。
私の二年間の入院生活は、毎日毎日リハビリに明け暮れた。自分を忙しくすることで、気を紛らわしていた。その甲斐あって、右半身の機能が少しだけ戻った。戻ったといっても、ほんのわずかで、失調症といって安定性はなく、ボタン掛けもできない。コップの水も零さずには飲めない。でも右手が動いた 徐々に動くようになって、顔がかゆい時かけるし、汗が出たら拭ける。こんな当たり前のことを、涙を流して喜んだ。左半身は顔面から口の中、足の先までピクリともせず、体幹(体のバランス)も不安定で、首の力も弱いので普通の車椅子に必死で乗っている。声は出るが発音がうまくできず、以前の声とは程遠く、普通の喋る早さの三倍はかかる、構音障害とやらも付録についてきた。来る日も来る日もリハビリをしていて、決して順風満帆にはいかなかった。人一倍努力して、少しでも治るために頑張らなきゃ という気持ちは十分あった。でも時々「みんな子育て頑張ってるのに、私だけどうしてリハビリしなきゃいけないの?」「私、なんにも悪いことしてないのに、どうしてこんな事しなきゃいけないの?」日曜の天気のよい日はうらめしかった。
何もかも自暴自棄になる時が何度もあった。その度に勇気もないのに、自ら命を断とう、とあれこれ考えていた。「手首を切ろうか」「階段から転げ落ちようか」「睡眠薬を毎日もらっていっぱい溜めて一度に飲もうか」ない知恵を絞って考えたが、そうやって、もし、今より重い障害が遺って生きていたらどうしよう!今よりずっとずっと、家族に迷惑がかかるだろう。どうしようもない葛藤が湧き上がっていた。その気持ちを主人にぶつけたら「子供の母親は、世界中でたった一人。その親が親を放棄してどうする!しっかり前を向いて子供を見守っていこう!」
そうだ。私はこの子達の親なんだ 弱音を吐いている場合じゃない。子供の成長を見ることができる「命」が残ったのだから、感謝して見守っていこう!そう心に決めてからも、何度となくその葛藤は訪れた。その度、子供に電話して、子供の声を聞いて、普通の母親に戻って葛藤と戦った。私の話は通じなくても、子供の声を聞いているだけで、幸せな気分になって、力が出てくる。子供達、家族、周りの方々から計り知れないパワーとハートをもらって、二年という長い長い入院生活に無事ピリオドを打てた。
平成十二年十一月十日。この病院に入院した日に退院し、現在、主人が転勤になり簡単についていけない私は、実家を改造し母と二人で暮らしている。家族ばらばらの生活だが、もうすぐ子供達が帰ってくる。この二年夢にまで見た、子供のいる生活ができる。落とし穴に入って、長いトンネルからやっと這いだした今、光は射しているが、どんな道があるかわからない。山道、崖道、嵐だって吹雪だってくるだろう。でも負けたりしない 母親だもん、泣いてなんていられない。トイレに一人で行けなくっても、一緒にお風呂に入れなくても、運動会で拍手できなくても、それでも私は「母親」である。自信を持って、私にしかできない「母親」という道を歩いていこう。一人じゃない。家族がいる。どんな道だってその時その時、できることを十二分に切り開いてやろう。
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