脳卒中後の第二の人生

峰岡 友和

 「肉屋に双子が生まれたってねー。それがホントのソーセージ(双生児)!」。一瞬間があって笑い声、そして笑顔、これは「むつみ会」(脳卒中友の会)に絵の講師を頼まれて行った時のお笑いの一席でした。

 四年前の平成八年の十二月、六十一歳の時、私は脳内出血で倒れ、左半身麻痺となりました。仕事も不景気で廃業、アルバイトの仕事を幾つかしたり、家でゴロゴロしていた矢先の事でした。血圧の薬は服用していましたが、煙草も吸わず、酒も飲めない体質で病気一つしたことのない私でした。見舞い客の前では、情けなかったり、口惜しかったりでどうしても涙もろい人間になっていました。

 リハビリのため仙台の病院へ転院した三ヶ月間、OT、PTの先生方のお陰で、装具と杖で歩けるようになりましたが、退院した時には、障害二級というレッテルを貼られたような気がしました。しかし、辛抱強くお世話していただいた看護婦さんや作業療法士の先生方には本当に頭が下がる思いです。

 退院して一年位は、テレビとゴロ寝、週に一度のリハビリのために健康福祉センターに通うといった日々を送っていました。

 ある時、広告の裏にコーヒーカップの絵を描いたのを、家族に褒められて若い頃に描いたのを思い出したのです。それからというもの、来る日も来る日も、しおりやはがきサイズの絵を描き続けました。もともと精密機械の仕事をしていたので、細かい事をするのは好きでした。題材は美術の本、広告、食器などの絵を参考にしています。右手だけで画用紙を切り、万力を文鎮がわり、絵の具のキャップをあける道具として工夫したりするものですから、時間は人の何倍もかかります。それでも今までに千枚以上描き、友人や親戚にプレゼントしてきました。趣味がここにきて、私の生活を支え暗く落ち込む事もなく、前向きの生活が出来るようにしてくれたのです。三年前に主治医の先生に「峰岡さんだったら、運転できるんじゃないかな?」の一言で、不安はありながらも、早速運転免許センターへ行き、オートマチック車なら「OK」と言われ、軽自動車が私の片腕となってくれました。先生の一言が、本当に励みとなりました。運転出来ると言う事が、こんなにも自分の世界を広げてくれるとは思っても見ませんでした。元来、私は見知らぬ所に行くのが好きでしたから、いまでは病院、八十八歳の母の通院やスーパーの買い物に行ったり、画材を買いに行ったり、美術館めぐりも楽しみます。週に一度、同じ病気の仲間を助手席に乗せてリハビリに行きます。また、二、三回「むつみ会」で絵の講師を頼まれたり、福祉プラザの健康祭りでは、三回絵を展示させてもらいました。そんな時「あれ?自分は障害者だっけ?」そうです、障害者を忘れているのです!また、三年前に、知人の紹介で絵手紙の交換をするようになりました。私のは絵ですが、友人(Kさん)は、右半身が不自由です。しかし大変な努力家で、左手で絵手紙の通信教育を習われて、今では右手と変わりなく上達し、その上、文才のある方なので、味のある絵手紙の交換をしています。最近、二人の思いが一つになり、「二人のしあわせ展」を市内の郵便局に展示させていただきました。その事が地方紙の新聞に掲載され、大勢の方々が見に来てくださいました。感想を書いていただいたのを読み、お互いに励まされました。元気な時には、ハガキ一枚書いたことのない私が毎日のように絵筆をもち、時々Kさんや友人に絵はがきを書いています。私は、東京出身で今は古川市に住んで三十年、仕事人間で友人の少なかった私に、沢山の友達の輪がひろがっているのを見ると「障害者って何だろう?」と思うのです。もし、脳卒中になってなかったら、多分、絵も描かず、友人もいなかったかもしれません。

 私は元々、落語やお笑いのテレビやラジオを見たり、聞いたりするのが好きです。障害者になったり、デイサービスに来ている高齢の方たちは、笑う事が少なくなるものです。先日も隣のデイサービスの部屋に行って、小話や猫の鳴き声のまねをしたところ大変喜ばれました。その中の九十二歳のおばぁちゃんは「私は一人住まいなんでね、久し振りに笑わせてもらいましたよ。又、来てね。」何と!障害者がボランティアしているのです。

 このように超まじめ人間が、ひと前で冗談を言って笑ってもらったりしているうちに、自分も笑っているのです。これまで五年近く、振り返ってみるなら、絵に始まり車に助けられ、家族や友人に励まされ、支えられて来ました。これからも、与えられた環境の中で、体は不自由でも純粋な心で、第二の人生を楽しんで行きたいと思います。

 さて、明日はデイサービスのおばぁちゃんにどの小話をしようかな!


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