夫がくれた感謝と勇気
松本まさ枝
平成三年七月突然夫が倒れたのです。場所は炎天下の家庭菜園でした。二時間余りもその発見がおくれ、救急車で病院へ運ばれた時には、脳梗塞が左脳を掌大にまで広げてしまっていました。
保存的療法で見守るしかなく、何日も意識は戻りません。生きているのか死んでいるのか、私自身が思考能力を失って、只付き添っていました。そんな私に飛んできた若い医師の言葉は「普通死んでも当たり前の状態で運び込まれた患者です。今たしかに生きています。御の字だと考えて下さい」と、大きな声でした。
その時夫は六十五才、私が六十四才で、若い時からの共働きは、それぞれ無事に定年を迎えていました。そして生活の設計通りに豊かな老後が始まったばかりだったのです。働き抜いて懸命に育てた二人の男の子は、共に東京の大学を卒業し、社会人として生活の基盤はしっかり東京に築いてをります。
従って夫の介護は、妻である私の責任であり、義務なのだから住みなれたこの福知山の我が家で頑張っていこうと強く心に決めたものでした。東京は遠くても、長男・次男、その嫁さん達が、温かく心を通はせてくれるのを強い味方と考えれば、全く先の見えない介護の日常も、私ひとりで何とか踏張ってゆける筈です。
救急車で運ばれた福知山の病院で三ヶ月、やっと頼みこんで転院出来た京都府立洛東病院のリハビリテーション部で五ヶ月の訓練を終えた時には、一級第壱種の身障者手帳も交付されました。時を同じくして、退院へ向けての住宅改良も、体当たりで勉強を重ねて施行も終わり、家庭介護が始まったのです。それからも戸惑いを重ねながら、丸十三年の歳月が流れています。
返り見れば、意識不明で心配だった日々から、尿管のはさみを二時間置きに開いて、尿意を根気強く意識付けた頃。また田舎町ではPTの数も少なく、STとなると一人もなかったあの時、右片麻痺で不自由な身体のリハビリと、単語の選び出しと組立ての失語の訓練は、退院後も一日も欠かさず自宅で繰り返し繰り返し、やり通してきた歳月を改めて思い起こします。よくぞ頑張ってきたとの自分への思いは、同時に大変な重度の障害を合わせてもつ夫が、私の組み立てるプラン通りに、毎日をよく耐え頑張ってくれた、あの時この折の姿が涙と共に甦ります。
“きゝ手変換、左手でも出来る”洛東病院でのスローガンをそのまゝに、今日まで日常の動作一つひとつに、甘えを受け入れないで自力でやり抜けることを、最高の価値としています。何もかもしてあげる介護ではなく、忍耐強くやさしく見守りながら、重度障害者の本人に自力でやってもらう、むづかしい介護に徹し切りました。ひと昔前は、とうてい周囲に理解されない私の介護の有り方でした。当時は福知山の病院や施設の職員にさえ、白眼視されたものです。
しかしこゝで挫けていては、今までの苦労が水の泡です。どんな時にも、しっかり前を向いて励ます私の見守りの介護は、総てを温かく気持ちのなかに包み込める介護者でなければならないのです。私の力量では、大変な精神力を要求され続ける日常でした。でも一つの動作が出来た時、単語が選び出せた折は、大きな拍手で一緒に喜べます。介護保険が施行されてからは、ディサービスやヘルパーさんも上手に利用させてもらっているのです。
現在夫の介護度は四で、ベッドからソファーへの生活ですが、年々老化を加えながら、何とか寝たきりを防いでおります。足こそ特注の装具と杖がないと立ち上がれませんが、食事はスプーンでなく左手の箸で食べられ、衣服の脱ぎ着も、歯みがき洗面と出来、月日を理解させるための一行日記や、ぬり絵と、椅子に腰掛けて、左手一つで、ゆっくりゆったりとこなしてくれます。その夫の居間には、情緒の安定にと四季折々の花がいっぱいいけてあり、ソファーで愛猫の背をなでる夫の穏やかな姿を見守る至福の時もあります。
お互いに障害に慣れ、介護に慣れて、一見平和な老々介護の生活ですが、今秋は次々と強い台風に見舞はれ、地震もきます。あの激しい暴風雨の夜「こわいなあ」と思はづもらした私の言葉に、頑張ってジェスチャーを添えながら「ボ・ボクが、エート、エート、まもってあげる」と言ってくれた夫です。嬉しいでした。今までの苦難もいっぺんにふっ飛んで涙が溢れました。
そして深い感謝の念として大きな勇気をもらったのです。この盤石の夫の愛に裏付けされていたからこそ、続いてきた介護の日々だったと、今更に心に深くしみわたる思いです。
片麻痺と失語の夫を支えきて
我が道しるべ愛の一文字
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