脳出血を乗り越えて!軌跡のクロール
伊達 秀子
1999年12月18日土曜日(60歳)、その日は突然来ました。朝から薄暗く肌寒い日でした。夕方、庭から家の中に入った途端、突然めまいが襲ったのです。すぐに良くなるだろうと思いその場にしゃがんでいましたが、そのまま意識を失ってしまい、発見されたのは20時間後の翌日の昼でした。
主治医の先生によれば、入院当初は意識不明での脳室穿破を伴った3cmの大きな左視床出血でかなりの重症で、覚醒後も右片麻痺で自分では全く動かすことが出来ない状態とのことでした。3日後まだ意識のない私のICUのベッドサイドにリハビリの先生が来てくださり、寝たままのリハビリが、早くも始まったようです。
4日後に意識を回復した私は数週間してからようやく起き上がれるようになり、車椅子に乗って移動しての立ちあがり練習を何度も繰り返しました。しかし思うようにはいかず、「どうして動かないの」と、いらだったり悔しかったりの毎日を送りました。しかし先生からみればびっくりする程の回復であったようです。転院先の病院でも、まだ車椅子を手放せない状態でしたが、通常のリハビリに加え、今後の自立を目標に包丁の持ち方も訓練メニューになりました。その他にも皮細工や籐の籠作りにも挑戦し、楽しみながらリハビリを続けることが出来ました。そのとき製作した籠は、今も自宅に飾っています。
7月 25日、7ヶ月の入院生活を終え、退院したときには何とか杖で歩行できるまでになっていました。私は、健康な時から趣味で30 年間スイミングスクールに通っていましたが、退院して真っ先に行きたいと思ったのがこのスイミングだったのです。右半身の麻痺による恐怖心は当然あったのですが、大好きなプールに通えるという嬉しさ、地上を歩く重々しさから解放される水の中の心地良さが、いつのまにか恐怖心を消し去っていました。 不思議なことに、背泳ぎは右手が自然に挙がりましたが、以前最も得意だったクロールは、手や肩に鉛が張り付いたように重くて、持ち上げて前に出すことができません。仕方なく左手だけで泳ぐことにしました。まもなく週3回の本格的なスイミングリハビリ生活が始まりました。クロールで泳げるようになることを目指して3ヶ月、ようやく少しだけ右手を挙げてかくことができるようになったときは、もう少し、もう少しと、欲がでるほど積極的になっていました。
この頃になると、私が以前から患っていた左股関節が、右足の麻痺により極度の負担が掛かり悪化してきていました。整形外科の先生に相談し、手術をしてもらう決心をしたのも、スイミングが前向きな気持ちを持たせてくれたからだと思います。2ヶ月の入院でチタンを入れた股関節は、今では全く痛むことがなくなりました。スイミングはもともと好きなこともあって、苦もなく続けられていたのですが、発病以前の自分の泳ぎとは程遠いことにいらだたしさを感じる毎日でもありました。こうして地味なリハビリが続いた4年後、思ってもみない誘いを受けることになったのです。
それは2004年「ウーマン・スイム・フェスティバル」(大会委員長 木原光知子氏)に健常者と一緒に参加するというものでした。健康な人と同じレースに出場することは、年齢(64歳)からいっても、体のハンディからも心配だらけ、スイミングのコーチにも無理ではないかと言われました。しかし、実行委員長の竹内治聡子(旧姓田中)先生が「挑戦しましょう!」と強く押してくださったため出場してみることにしたのです。そして脳外科と循環器の主治医の先生方の応援も、当日までの不安をかき消す、力強い後押しとなったのでした。
いよいよレースの日、緊張はピークに達しました。私以外はすべて健康な人達です。私は、飛込みができないので、プールの中からのスタートです。脳出血を起こしてから4年、大会に出ることになろうとは夢にも思わず、スタート前はドキドキして心臓がはちきれんばかりでした。水深2mの横浜国際プールでは、途中でやめるわけにはいきません。スタートのピストルがなりました。それと同時に竹内治さんが最もアウトレーンを泳ぐ私に、声をかけながら併走して下さったのです。25mを過ぎたところから徐々に体の力が抜け、楽に泳げるようになりました。気持ち良い自分の泳ぎを感じることができたのです。泳ぎきった時の充実感と満足感、そして完泳したことを自分の事のように涙を流して喜んでくれた仲間の顔は、今も心にはっきりと焼き付き、決して忘れる事はないでしょう。
まだ右手と右足は重いのですが、今では週3回1000mを休まず泳ぐようにしています。
今年も10月に行われる大会に向けて完泳を目指して練習に励んでいます。水泳をやっていて本当に良かったと思います。沢山の人達に支えられていることへの感謝を忘れずに、これからも前向きに頑張っていこうと思います。
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